(今日はくまのお母さんはいません。)
うちと似た環境で育っていわゆる成功した人生を送っている人が羨ましいと思います。
私にはできなかったことができる人が羨ましいと思います。
私はどんなことがあっても息子を受け止めることができていたのでしょうか。
生きていこうと切り替える力を与えることができなかった、それが結果なのでしょうか。
「たられば」はやめようと思っていますが、まぁ仕方ないとも思います。
だからこそ今を生きるしかないと思います。
(今日はくまのお母さんはいません。)
うちと似た環境で育っていわゆる成功した人生を送っている人が羨ましいと思います。
私にはできなかったことができる人が羨ましいと思います。
私はどんなことがあっても息子を受け止めることができていたのでしょうか。
生きていこうと切り替える力を与えることができなかった、それが結果なのでしょうか。
「たられば」はやめようと思っていますが、まぁ仕方ないとも思います。
だからこそ今を生きるしかないと思います。
(今日はくまのお母さんはいません。)
ツイッターで私のモヤモヤを言語化してくれている投稿を見つけて、うなりました。
いきなり何のカミングアウトなんだって感じなんですけど、普通の家庭で育ったと思ってたら虐待されてたっぽかったんですよ 人生がつらいみんなカウンセリングに行ってくれ! よろしく頼みます pic.twitter.com/a4WpVoPzMH
— そと (@iyd) 2017年5月1日
息子も父親から虐待を受けていました。
私に対してもモラハラだったのですが、さすがに息子に対して父親は毒親だと私からはっきりいうことができませんでした。
息子は大学生になってメンタル不調になってから、父親が父親として不適切な態度だと認識できるようになったようです。
それでもどこかで毒親じゃない父親であってほしいという気持ちもあったのでしょう。
息子の出身高校は県下一の進学校ですが、同級生でもメンタル不調らしく大学休学していた子や、大学卒業後の進路が決まらず親元で引きこもっていた子もいます。
それでもきっと親御さんがしっかりしているからやり直しというか仕切り直しができているのではないかと思います。
私は父親の分も頑張るというより、毒になる父親はいない方がマシと思っていましたが、息子は父親をいないものと考えたくなかったのかなと思います。
「よくここまで生き延びて来たね」
と息子に言ってやれるスキルがなかったと思ってしまうあたり、職業病なのですが、虐待ならしょうがないかと息子自身が割り切れるようなら良かったなと思うくらいに「たられば」はあるのです。
坊やが遊んでいたお気に入りのスマホゲームをくまのお母さんもやっています。
位置情報ゲームで坊やが帰省していた時もゲームの話をよくしていました。
坊やのスマホでゲームのログも見られるので、坊やがいつどこへ行ったのかもわかります。
坊やが行ったところを辿ってみたいのですが、都会暮らしだった坊やです。
田舎暮らしのくまのお母さんはなかなかお出かけの機会や予算がありませんが、ゲームでメモリールートというのがあって、坊やは地元でも一つメモリールートを作っていて、くまのお母さんはそのメモリールートを巡って来ました。
最後になってしまった坊やの帰省中、不調気味だった坊やとドライブに行ったときのルートです。
道の駅に温泉が併設されているところがあって、坊やと出かけた時は温泉に入りませんでした。
なので今回は温泉に入りました。
久しぶりにちゃんとした温泉に入ってくまのお母さんは満足しました。
坊やと一緒に来たかったな。
(今日はくまのお母さんはいません。)
尼崎JR脱線事故でお子さんを亡くした親御さんがたくさんいらっしゃいます。
我が子を亡くした親の悲しみは、我が子の未来が閉ざされたことできっと共有する思いがあると思います。
尼崎JR脱線事故で娘さんを亡くした方で、3年経って体調を崩したという方もいるのをネットのニュース記事で読み、自死遺族に限らず遺族の思いや感情の繊細さに共感します。
今朝のNHKニュースで、当時、大学生の男性が事故で負傷し、一命を取り留め、今は作業療法士として頑張っている様子が映りました。
一方、やはり事故の生存者で当時大学生の男性でPTSDになり、事故から3年半後に自死した方もいます。
JR西日本はその自死遺族への支援もしていたとのことですが、支援を打ち切ることにしたのは、生存者ならば亡くなった人たちの分も頑張るべきだという意味があるのだろうかと思います。
事故で直接亡くなった遺族にとっては、いろいろやりきれない思いがあるのかもしれませんが、悲しみは自分だけのものであり、人と比べることができないはずです。
人と比べることが差別という言葉を生むと思います。
いろいろ考えさせられる事故です。
くまのお母さんは、都会に行って来ました。
なかなか思うように移動ができなくて神社には行く余裕がありませんでした。
坊やがアルバイトしていた会社のある街にも行きかねました。
桜の季節は終わってしまったかしらと思っていましたが、散り始めの桜を眺めることができました。
坊やが体調不良のときに散歩をすすめましたが、多分、坊やが散歩に出かけた公園に行きました。
桜の季節には大学の友達と花見もしていたはずですが、この公園の桜も見たかしら。
そして、坊やが亡くなる前に過ごしたカフェに行きました。
坊やのインナーキャリングのポケットに入っていたレシートを見て、このカフェには行こうと思いました。
なぜこの店に来たのか。
友だち(?)と約束をしていたようだし、このカフェの近くに坊やが入社予定だった会社があって、その日にその会社へ行って写真を撮ったのが残っていました。
死にたくて死ぬんじゃないよね。
くまのお母さんは、そう思っているのです。
(坊やが過ごしたカフェ)
くまのお母さんは、3月で仕事を辞めてぶらぶらしています。
就活もしていますが、思うような仕事にご縁がありません。
昔の同僚から声をかけられて、5月からお勤めができるかもと思った求人は諸般の事情で無理でした。
ちょっとしたアルバイト?をしていて、それをきっかけに起業したいなと考えるのですが、社会保険のあるお勤めをしたいという気持ちも強いです。
もっとも思い切って起業とは行かないまでも、フリーで仕事して稼げたらいいわけです。
条件を選ばなければ、お勤めはあるんですけどね…
さて、せっかくの自由な時間です。
くまのお母さんは、お得な切符を買って都会へ行くことにしました。
ここ1年間は、都会へ行く用事がなかったし、仕事で余裕もなかったのですが、坊やの1周忌にお墓参りに来てくれた坊やの大学の先輩たちから坊やが行きつけだったお店を聞いたので、都会へ行って坊やが過ごした場所に行ってみようかなと思います。
都会に慣れていないくまのお母さんなので、行けそうなところを選んで行こうと思います。
本屋さんやカフェ、カレー屋さん、公園、神社…
くまのお母さんが知らなかった坊やの思い出巡りができるかな。
くまのお母さんは、シングルマザーでした。
過去形っていうのがツラいところ…
くまのお母さんは、このイラスト(漫画)のように毎日毎日がんばって子育てしていました。
坊やは赤ちゃんの頃から繊細でよく泣き、3歳になるまでくまのお母さんにしがみついているような子でした。
くまのお母さんは、どうして坊やは他の子たちのように走り回ったり、じゃれ合うような遊びを好まないんだろうと思っていました。
でもいつかきっと楽になると信じて、くまのお母さんは坊やを抱っこしたり背負ったりして育てました。
養育費もなくくまのお母さんは非正規の仕事しかできなかったので、坊やの教育にはお金をかけられませんでした。
でもお金がなくても教育は重要だと思っていたので、気を使いました。
おかげで坊やが中学生の頃に英検準2級を取れて、パソコンも使いこなせるようになっていました。
相変わらず繊細で、いじめられた感じを持って学校生活を送ることがあったようですが、担任やスクールカウンセラーに相談しながら乗り切ってきました。
県下一の進学校に入学して、都会の国立大学に現役合格して晴れて大学生になり、よいお友達や先輩に恵まれて、坊やが幼稚園から大学までの間で一番、大学時代が楽しかったんじゃないかなとくまのお母さんは思います。
「苦労の数だけ喜びになって…きっと戻ってくる」
とくまのお母さんも信じていました。
だけど、喜び以上の悲しみがやってくるとは予想できませんでした。
つらいことを乗り越えられると考えていたのは、くまのお母さんだけだったのでしょうか。
くまのお母さんが離婚しようと思ったのは、くまのお父さんのひどいモラハラで、このままでは坊やに悪影響があると思ったのです。
離れてしまえば安心だと思ったのですが、くまのお父さんは就活中の坊やに不適切な介入をしていて、他にも人間関係で直接的なきっかけはあったようですが、坊やのメンタル不調に拍車をかけた、そもそもの原因はくまのお父さんの不適切な養育態度だとくまのお母さんは思っています。
離婚しただけではダメだったのか、坊やはくまのお父さんを毒親と切り捨てることができなかったのかとくまのお母さんは思います。
繊細すぎた坊やをどうしたらよかったのかなと思います。
くまの母さんはよかれと思うことはやってきたので、今は、ただただ坊やの供養をしながら生きていくしかないのでしょう。