(今日はくまのお母さんはいません。)
なんというか、そこまでして一般人の小室圭さんを叩く必要があるのかなと思います。
そして鬼の首を取ったように、小室さんのお父さんが自死したことについて根掘り葉掘り週刊誌が書くとか、自死でなければ、そこまで執拗に週刊誌に書いたでしょうか。
悔しい思いでいっぱいです。
もっとも自死遺族としての小室さんのイメージが感じられないので、その辺はどうなんだろうと思います。
「さよならの朝に約束の花をかざろう」の映画を見てきたくまのお母さんです。
坊やが見た最後の映画が、この監督が脚本を書いた映画「心が叫びたがってるんだ。」でした。
だから、坊やもきっとこの映画を見たいだろうなと思ったので。
映画を見る前は、さよならの朝ってどういう意味だろうなと思っていましたが、映画を見ていくうちに、さよならっていうのは亡くなることなんだろうなとぼんやりと考えました。
約束の花の意味はよくわかりませんでした。
折に触れて想像してみたいと思います。
この春から、仕事を増やしたくまのお母さんは、いろんなところで初めて会う人が多くて、ちょっと疲れていました。
初めて会うということは、くまのお母さんの坊やのことをご存じないということです。
だいたい、
「お子さんは?」
と聞かれます。
くまのお母さんは
「亡くなりました。」
と答えます。
それを聞いて、謝る方もいれば、
「どうして亡くなったんですか。ご病気ですか。」
と聞く方もいます。
そこまで聞くことかー、とくまのお母さんは思いますが、素朴な疑問でしょうからね。
曖昧に返事をして、それ以上突っ込むなオーラを出します。
そして、初めて会う人に子どものことを聞かれるのはイヤだなと思うくまのお母さんです。
今日はまたブログ書きます。
家族を亡くした悲しみといっても、誰かと比べられるものではないでしょう。
誰が亡くなったか、亡くなった理由は、など。
悲しみは決して他人と比べてはいけないと思います。
私は東日本大震災の被災県に住んでいるので、7年前に家族を亡くした方が大勢いたのです。
津波で家族を亡くしても、自死で家族を亡くしても、家族が突然亡くなったことだけ事実で。
そのことの解釈はそれぞれ違うはずなのです。
「誰かが危ない所に行こうとしていたら、絶対引きとめて。
大切な人を守ってほしいんです。
私は後悔している」
自死する人は、家族にそれと気づかれないように振る舞うことが多いのではないかと思います。
だから遺された家族は後悔するのだろうと思います。
まさか死んでしまうなんて思えない、思いたくない。
命の危機を感じたらすぐに引き留めることが大事だけど、わからないことも多いと思うので、そのことで自分を責めないようにした方がいいかと思います。
(今日はくまのお母さんはいません。)
これは私たちに現実に起きた事なの?今でも映像の中の出来事のような気がする。読み返すのも辛い。感情に任せて綴った #高橋まつり の24年の人生は40頁では語り尽くせない。あの子はこんな事の為に生まれて来たんじゃない。ノンフィクションなんだと受け入れられる日は多分人生の終わりまで来ない。
— 高橋 幸美 (@yuki843003) 2018年4月12日
私は頭では受け入れていると思っています。
でも私は子どもの頃から自分の気持ちに蓋をすることで、自分を守って生きてきたところがあるので、その辺の境目を曖昧にさせています。
ま、しようがない。
そんな私を大事にすることで、次が見えてくるんだろう。