(今日はくまのお母さんはいません。)
死にたい理由より生きる理由の比重が大きくなればいいのかな。
生きる理由を作るっていうのもどうなんだろう。
今の私が生きる理由は息子の供養をするため。
(今日はくまのお母さんはいません。)
死にたい理由より生きる理由の比重が大きくなればいいのかな。
生きる理由を作るっていうのもどうなんだろう。
今の私が生きる理由は息子の供養をするため。
坊やが好きな漫画家さんのツイッターを読んで「Maybe!」という雑誌をアマゾンに注文しました。
発売中の「Maybe!」に6P漫画と表4に大塚製薬の絵を描いています。 https://t.co/AwrQUyNLOs pic.twitter.com/6BedY77k6d
— 今日マチ子 kyo machiko (@machikomemo) 2017年6月2日
もう届いちゃいましたよ。
早速、仏壇にお供えしてから、くまのお母さんも読んでみることに。
何だかよくわからないコンセプトの雑誌だなと思ったけれど、坊やが好きな漫画家さんの新作が掲載されているから、何でもいいや!って。
新しくてリアルなファッション&カルチャーマガジン『Maybe!』信用ならない情報社会を生きる好奇心旺盛なカルチャー女子へ向けて、 たぶん、これが世の中の真実だと思われることを毎号特集テーマに合わせて、調査、考察して発信します。
あ、そうなんだ…
女子向けの雑誌だったのね。
「前髪重め」とかいうヘアースタイルって、晩年の坊やのヘアースタイルじゃないですか!
くまのお母さんは視力が悪くなるとか言って、つい前髪長いと気になっちゃいましたが、流行りのスタイルだったんだ。
こういう雑誌、女子向けだけど坊やが好きそうだなとくまのお母さんは思いました。
都会が大好きだった坊やに似合います。
それからもう1冊、坊やが好きな雑誌の最新号に坊やが多分好きだった詩人の特集があったので、一緒に注文して届きました。
6月になりました。
くまのお母さんは相変わらず働かずに家にいます。
SNSで知り合った人たちと会ったりイベントに参加したり、ちょっとの小銭稼ぎをしたりしています。
飼っている猫に間違って坊やの名前で呼んでしまうことは度々ありましたが、昨日、坊やが亡くなって初めて猫に坊やの名前で呼びかけてしまいました。
全然意識していなかったのですが、不思議です。
坊やが大学生になってからずっと離れて暮らしていたので、坊やが家にいない日々が普通のことではあるのですが。
くまのおじいちゃんは坊やの着ていた服やシューズやポーチを使っています。
それも形見だからというのではなく、坊やが身に付けなくなったものをお下がりでくまのおじいちゃんが使っているのです。
だから、坊やが都会暮らしをしていた頃と我が家は変わりない日々を過ごしています。
世の中はいじめによる自死や過重労働による自死のニュースが目立ちます。
くまのお母さんは自死遺族だけにそういう情報に敏感なのでしょうか。
『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』という本が話題です。
坊やが亡くなる前にこの本が出版されていたら坊やは読んだでしょうか。
そもそも、くまのお母さんは坊やの体調不良が死に至ることに繋がるとは思いませんでした。
「うちの子に限って」と思っていました。
坊やが亡くなることは考えたくなかったし、向き合うのが怖かったんだと思います。
あーあーあー。
何を言っても坊やが亡くなったことだけが事実です。
離婚したくまのお母さんは、坊やがいれば老後も何とかなるだろうと気楽に考えていました。
ところが、くまのおじいちゃんとくまのおばあちゃんが亡くなったら、一人っ子のくまのお母さんは誰も頼れる身内がいません。
くまのお母さんが死んだ後のことを考えなければと思います。
だから、少しでも収入を多くしたいし、終活も具体的にしようかと思います。
こんな雨の日はそんなことを考えながら過ごしましょうか。
去年は坊やが亡くなったことから逃れるように忙しくしていたところもありました。
もっと余裕を持って暮らしたいです。
(今日はくまのお母さんはいません。)
私が大好きな漫画「夜廻り猫」の更新をいつも楽しみにしています。
↑の漫画を読んで気がついたことを書きます。
この漫画に登場する青年は何をしようとして、夜廻り猫の平蔵に止められたのかなと思いました。
「許せない奴に遭ってしまった」と。
息子も亡くなった直接の原因の引き金がまさにそれだったと思いました。
裏切られた気分でいっぱいになってしまったのかもしれません。
そして、息子が無理に許してきたことというのもたくさんあったように思います。
物事の捉え方を形作ってしまったのは、幼い頃の家庭のゴタゴタが一番大きいかもしれません。
だけど過去は変えられない。
そこからどう生きていくかだと思って、息子には話してきたつもりでしたが、足りない言葉がありすぎました。
息子の最期の日に、夜廻り猫の平蔵がこの漫画のように息子のそばに現れてほしかったと思います。
(今日はくまのお母さんはいません。)
京都国際写真祭2017というイベントが今日まで開催中です。
吉田亮人さんという写真家が出展しています。
「Falling Leaves」という自身の祖母と従弟の写真を撮った作品です。
小学校教師を辞め写真家の道を選んだ1980年生まれの吉田は、写真家を志した頃から、年下の従兄弟と、従兄弟が生まれた時から生活を共にする祖母の関係性を撮り続けていた。80歳を超え、体の弱くなった祖母を献身的に介護していた従兄弟が、ある日突然姿を消す。そして約1年後、落ち葉の積もる山中にて、遺体が発見される。23歳の若さで自ら死を選んだ従兄弟と、彼が発見された翌年に他界した祖母との、どこか不思議な、けれどまばゆい生の日々を追った記録。
・なぜ、祖母と孫の2人暮らしだったのか。
・大学生の孫(大輝さん)は学費や生活費をどこで得ていたのか。
・大輝さんの両親はどうしたのか。
以上、私が疑問に思ったことです。
大輝さんは看護学生で年老いた祖母を介護しつつ学業に励んでいたと思います。
そもそも大輝さんの両親の存在が語られないのですが、吉田さんをはじめとする親戚も祖母のお世話(?)は大輝さんに任せきりだったわけですよね。
ばあちゃんは大好きで大切だけど、家族(同一世帯)だから孫の自分が面倒を見るのは当たり前なのかもしれないけれど、おじやおばが本来はばあちゃんの面倒を見なくてはいけないのではないだろうか。
そう考えてはいなかったのでしょうか。
経済的な支援も必要ではなかったのでしょうか。
そして、なぜ「自ら死を選んだ」という表現をするのか。
吉田さんもそう思っているんだろうなと思います。
親戚として関わってきた中で大輝さんの死の理由がわからないのですものね。
(これは私個人の想像です。)
大輝さんは良い孫として振る舞うのが辛くなったのかなというのも私の想像でしかありません。
援助を求める力というのは、一人で頑張る人にこそ必要ではないかと思います。
自死は選ぶのではなくて他に選択肢が見えなくなってしまうということなのではないでしょうか。